東京高等裁判所 昭和40年(う)2074号 判決 1966年7月19日
控訴人・被告人 藤島栄蔵
弁護人 大久保弘武 外一名
検察官 岸川敬喜
主文
原判決を破棄する。
被告人を懲役四月に処する。
但し、本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。
右猶予の期間中被告人を保護観察に付する。
当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人大久保弘武及び同鈴木光友連名提出の控訴趣意書、弁護人杉村進、同安藤嘉範及び同寺口真夫連名提出の控訴趣意書並びに弁護人木村善太郎提出の控訴趣意補充書に記載されたとおりであるから、ここにこれを引用し、これに対し次のように判断する。
本村弁護人の控訴趣意第一点の理由不備ないし理由くいちがいの主張について。
論旨は、原判決は原判示事実につき児童福祉法第三四条第一項第九号、第六〇条第二項を適用しているが、第六〇条第二項は故意犯を処罰する趣旨であり、同条第三項は児童(満十八歳に満たないもの)を使用する者が児童の年齢を知らないことにつき過失のある場合にかぎり、その故意のある場合と同様にこれを処罰する趣旨を示したものと解すべきところ、原判決は被告人が島沢さく江を雇い入れるに際し同女が児童であることを認識していたかどうか、もし児童であることを認識していなかつたとすれば、その認識しなかつたことにつき過失があつたかどうかについて、何ら判示するところがないから、原判決には理由不備の違法があり、もし原判決が被告人において同女が児童であることを認識していた趣旨を認定判示したものとすれば、かかる事実は原判決の引用証拠によりこれを認定するに由ないから、原判決には理由くいちがいの違法があるというのである。
児童福祉法第三四条第一項及び第二項は、児童福祉上有害であると認められる児童に対する特定の行為を禁止し、同法第六〇条第一項及び第二項は右禁止規定違反に対する罰則を定め、同条第三項は「児童を使用する者は、児童の年齢を知らないことを理由として、前二項の規定による処罰を免かれることはできない。但し、過失のないときは、この限りではない。」と規定している。ところで、第六〇条第一項及び第二項が前記禁止規定違反の故意犯のみの処罰規定であり、同条第三項が児童を使用する者が過失により児童の年齢を知らないで右の違反行為に出た場合の処罰規定であると解すべきかどうかは、文理上必ずしも明らかではない。同条第一項及び第二項は、一応故意犯の規定形式を採つているが、さりとて、同条第三項は、その立言方法が消極的であつて、過失犯の構成要件を積極的に規定したものとしての形式を採つていないのである。おもうに、以上摘示の諸規定を対照し総合して勘案すると、第三四条第一項及び第二項の禁止規定違反に対する基本的な罰則規定は、第六〇条第一項及び第二項であり、同条第三項は、同条第一項及び第二項が児童を使用する者については児童の年齢の認識の有無を主観的構成要件としていないことを明らかにするとともに、その年齢を知らないことにつき過失のないときは処罰を免かれるということを定めた同条第一項及び第二項に対する一種の解釈的な補充規定であつて、特に過失犯の類型を規定したものではないと解するのが相当である。したがつて、児童を使用する者の右禁止規定違反の罪となるべき事実としては、その者において児童の年齢を知つていたか、あるいは過失によりその年齢を知らなかつたかを判示することは、必ずしも必要ではないと解すべきである。昭和三十三年三月二十七日の最高裁判所第一小法廷判決(刑集一二巻四号六五八頁)は、本件の場合と同様同条第一項及び第三項の解釈が争点となつた事案において、同条第一項は故意犯の規定であり、同条第三項は過失犯の規定であるとの見解を採る上告論旨に対し、「児童を使用する者の本件犯罪について、同条第三項本文は、児童の年齢を知らないことは、刑事訴訟法第三百三五条第二項にいう法律上犯罪の成立を妨げる理由…………となる事実とならない旨を定めるとともに、右第三項但書は、児童の年齢を知らないことにつき過失がないことは、右犯罪成立阻却事由となる旨を定めたものと解するのを相当とする」との判断を示して右上告論旨を却けたのは、根本的には当裁判所の示した前記見解と同旨の見解を採つているものと解することができる。されば、原判決が被告人において児童である島沢さく江を雇い入れるに際し同女の年齢を知つていたか、あるいは過失によりその年齢を知らなかつたかを特に認定判示しなかつたことを目して、所論のように理由不備ないし理由くいちがいの違法があるものということはできない。論旨は理由がない。(なお、被告人の右認識如何の点については次項の説明参照。)
本村弁護人の控訴趣意第二点の事実誤認の主張について。
論旨は、被告人は、島沢さく江を雇い入れるに際し同女が児童であることを知らず、かつその知らなかつたことにつき過失がなかつたというに帰する。
静岡県浜松市長平山博三作成の戸籍謄本によると、島沢さく江は、昭和二十三年三月二日生れであることが明らかであるから、被告人が同女を雇い入れた当時の昭和四十年六月十日頃には同女は満十八歳に満たない者すなわち児童であつたことが明らかである。ところで、さく江の司法巡査に対する供述調書(二通)、渡辺哲也及び下川勇の各司法警察員に対する供述調書、被告人の司法警察員に対する昭和四十年六月二十三日付供述調書並びに被告人の原審公廷における供述によると、さく江は、昭和四十年四月末頃から浜松市内の社交クラブ晴美で社交婦として働いていたが、間もなくそこをやめて、同年五月末頃渡辺哲也の内妻の経営する同市内の社交クラブ夢ぞのに同様社交婦として雇われ、渡辺から現金十万円を借り受けたが、その後夢ぞのには一日も働きに出ないで右金員を使い果し、知合いの下川勇に右事情を打ち明けて相談し、同年六月十日頃下川とともに被告人の経営する社交クラブ弥生会において被告人と面談し、夢ぞのとの叙上の関係を話し、渡辺の諒解も得たうえで、弥生会に社交婦として勤めることとなり、なお被告人に対し十万円の金借を申し入れたが拒まれ、結局下川が被告人の斡旋によりその保証を受けて他より借り受けた現金十万円をもつて渡辺に対する借金を返済し、同月十四日頃から約七日間ひとみという芸名で弥生会に住み込んで働いていたものであることが認められる。ところで、被告人がさく江を雇い入れる際同女が児童であることを知つていたかどうかの点は、証拠上必ずしも明瞭ではない。さく江及び下川と被告人との最初の面談において、さく江の年齢についても問答の取り交わされたことは、右三名の前掲各供述調書、さく江に対する当審証人尋問調書、下川の当審公廷における証言及び被告人の原審公廷における供述により明らかであるが、さく江及び下川は「被告人に対し十九歳であると話した」と述べ、被告人はさく江及び下川から十八歳であると聞いた」と述べ、双方の供述は、相照応するとはいえないにもせよ、さく江が下川及び被告人に対し同女の年齢を偽り満十八歳以上であるように装うていたという趣旨においては一致しているのである。さく江が真実の年齢を明かせば、被告人に雇うことを拒否される虞があるから、右のごとく同女の年齢を偽つたということは、あながち首肯しえないことではない。ところが、渡辺は、前掲供述調書において「六月十日か十一日頃被告人から電話でひとみを雇つてもよいかとの問合せがあり、同女から借金を返してもらつたし、同女が十八歳未満であることを知つて雇う気もなくなつたので、あんたさえよかつたら、そのようにしてくれ、しかしその子は十八歳未満だよと話した」旨述べている。しかるに、渡辺は、当審証人尋問調書において、一貫した明確な供述をしているわけではないが、「被告人から電話で君のところの女を私のところで使つてもよいかとの問合せがあつたので、使つても結構ですと答えた。それから三、四日たつて下川とさく江が私のところへ来て十万円を返してくれた。被告人から問合せの電話があつた日の二日前にあけみという女からさく江が十八歳未満であることを聞いた。警察では被告人から問合せの電話があつた時被告人にさく江は十八歳未満であると話した旨述べたが、当時もはつきりした記憶はなかつたのであり、被告人にさく江が十八歳未満であると話せば、被告人は同女を雇わなくなり、そうなると私が同女に貸した十万円の金も返してもらえなくなるので、右電話のあつた日の二、三日後に被告人に同女の年齢を話したのかもしれない」と述べている。渡辺が右供述どおりに事を運んだものとすれば、そのやり口は甚だ打算的であるとのそしりは免かれないが、筋は一応通つているのであつて、この点に関する同人の前掲司法警察員に対する供述の真否は、はなはだ疑わしくなるのである。以上をかれこれ勘案すると、被告人がさく江を雇い入れる際同女が満十八歳未満であることを知つていたことを確認するに足りる証拠はないのであつて、結局、被告人は同女が満十八歳未満であることを当時知らなかつたものと認定するのほかはない。
よつて進んで、被告人においてさく江が満十八歳未満であることを当時知らなかつたことにつき過失があつたかどうかにつき審按するに、原判決の引用証拠により明らかであるとおり、いわゆる社交クラブなるものの正常の業態は、社交婦すなわち料亭等の酒席に侍し客を接待する婦女子を派出することを業とするものである。しかして、かような社交クラブに社交婦として雇われることを希望する満十八歳未満の婦女子が、その希望を遂げるため、みずからまたは局旋人等を通じ、その年齢を偽つて満十八歳以上であるもののように装い、雇主を欺いて雇われる事例が世上けつして稀でないことは経験上明らかであり、(このことは、さく江自身がさきに社交クラブ晴美で社交婦として働き、同夢ぞので同様働く約束をしたことによつても実証されている)、したがつて、同種職業に就いた前歴を有する婦女子についても、その前歴自体は、常に必ずしも同女が満十八歳以上であることを裏書きする資料として充分であるとはいえないのである。されば、社交クラブの経営者が、十八歳あるいは十九歳であると自称するような若い年齢層の婦女子を雇い入れるに当つては、単に本人若しくは周旋人等の供述、本人の身体の外観的発育状況や同種職業に従事した前歴の有無等のみに頼ることなく、更に本人の戸籍を調べ、その父兄に問い合わせる等の確実な調査方法を講じて、本人の年齢を確認すべき注意義務を負うていることは、児童福祉の理念(同法第一条)に照し当然の事理であつて、雇主に対し右程度の注意義務を課することを目して、所論のように児童を雇い入れた場合の無過失の抗弁をすべて封じ、刑法における責任主義を否定する結果になると極論しなければならぬほどに、しかく苛酷な義務を強いるものと認めることはできない。しかるに、原判決の引用証拠によると、被告人は、さく江を雇い入れるに当り、前説示のとおり同女及び下川から同女の偽りの年齢を聞き、さきに同女が渡辺の内妻の経営する夢ぞので働く約束をして渡辺から金十万円を借り受けたことを知つて同人の諒解を得ただけで、他に同女の年齢を確認するための確実な調査方法を何ら講じなかつたことが明らかであるから、被告人は同女が満十八歳未満であることを知らなかつたことにつき過失の責があつたものといわなければならない。論旨は理由がない。
(その余の判決理由は省略する)
(裁判長判事 坂間孝司 判事 栗田正 判事 有路不二男)
弁護人木村善太郎の控訴趣意
第一点原判決には理由不備の違法がある。
原判決は、『被告人は、浜松市千歳町一一二番地において、社交クラブ「弥生会」を経営しているものであるが、法定の除外事由がないのに昭和四〇年六月一〇日頃、右「弥生会」において、社交婦として酒席にはべらせる目的をもつて、児童である島沢さく江(昭和二三年三月二日生)を、暴力団員を通じて前借金十万円をもつて雇い入れ、同日から同月二〇日頃までの間、売春をも行ういわゆるステッキガールとして派出させ、もつて児童の心身に有害な影響を与える行為をさせる目的をもつて、これを自己の支配下に置く行為をしたものである。』との事実を認定し、児童福祉法三四条一項九号六〇条二項を適用し、実刑に処したのである。
ところで、記録を検討してみるのに、被告人は、右島沢さく江を雇い入れるに際し、同女が十八歳だといい、しかも以前他の社交クラブ「夢ぞの」等で働いていた、というので、同女の言を信用し、同女が満十八歳に満たないいわゆる児童であることを知らずして、これを雇い入れたのであるが、それから四、五日経過して同女が十七歳であることを知つたので防犯課に連絡しようと思つているうちに、警察官の取調を受けるにいたつたものである(被告人の原審第一回公判廷の供述及び同人の昭和四〇年六月二三日付司法警察員に対する供述調書)。そして、この事実は、島沢さく江の昭和四〇年六月二一日付司法巡査に対する供述調書中の「弥生会藤島方で働く際、本当のことをいえば雇わないと思い、年令は十九歳で、家出人でないと嘘をいつた」旨の供述により補強されているのである。
すなわち、被告人は島沢さく江を雇い入れるに際しては、同女が満十八歳未満の児童福祉法にいわゆる児童であることについての認識をもつていなかつたのである。
ところで、児童福祉法三四条一項九号、六〇条二項の罪は、勿論故意犯を罰する趣旨であるが、右六〇条三項は、これについて、「児童を使用する者は、児童の年令を知らないことを理由として、前二項の規定による処罰を免れることができない。但し、過失のないときは、この限りでない。」旨の特則を規定しているのである。ところで、右六〇条三項の規定は、同法三四条一項九号違反の罪(すなわち、罰則として同法六〇条二項の罪)の成立について、故意、過失の有無を問わないという責任主義を破る趣旨を謳つたものではなく、ただ児童の年令を知らなかつたことについて過失のあつた場合にも、その故意のあつた場合と同様にこれを処罰する趣旨を示したものと解すべきである(昭和三〇年一一月八日最高裁第三小法廷決定集九巻一二号二三八二頁、同年一〇月一八日東京高裁判決高裁判例集八巻七号九五四頁参照)。このことは、六〇条三項但し書が特に、過失のないときはこの限りでないと規定していることからも明らかというべきである。(右但し書の規定は、単なる立証責任に関する規定ではなく、過失がなければ罪せられない旨の実体規定と解すべきである。)すなわち、同法三四条一項九号違反罪(六〇条二項の罪)は、児童の年令を知らなかつたことにつき、過失のあつた場合に限り、これを故意の場合と同様に処罰するものであるから、同条違反罪として、被告人を処罰するについて、被告人が前記の如く島沢さく江の年令を誤認した事実がある以上、その誤認が果して被告人の責められるべき過失によるものであるか否かを認定しなければならない筋合である。そして、その年令誤認の点について、被告人に過失ありと認定された場合に、はじめて被告人に対し右の罪責を問いうぬ次第である。
然るに、原判決はこの点に意をもちいず、被告人が島沢さく江を雇い入れるに際し、同女が児童であることを果して認識していたものか、どうか、もし、その児童であることを知らなかつたとすれば、その誤認したことについて果して被告人に過失があつたものか、どうかについて全然判示するところがないのである。思うに、原判決は三四条一項九号違反罪は、過失も故意と同様に罰せられるということを念頭に置き、漫然事実を認定し、前記事実の摘示をしたものと解されるが、過失が故意と同様に罰せられるとしても、それは、被告人が島沢さく江の年令を知らなかつた点について過失の認められる場合に限りそうなのであるから、被告人に故意があつた場合ならいざ知らず、故意の認められない本件では、被告人に過失のあつたことを特に明示判断する必要があつたわけである。
然るに、この点について毫も判示するところのない原判決には、理由不備の違法が存するものといわなければならない。
かりに、もし、原判決が、被告人において島沢さく江を雇い入れるに際し、同女が満十八歳未満の児童であることを認識していた趣旨を認定判示したものとすれば、原判決の引用する証拠によつては、とうていかかる事実を認定するに由ないものというべく(その引用の証拠によれば、被告人は前記の如く同女が満十八歳未満であることを知らなかつた事実を知ることができる)、原判決には理由そごの違法があるものというべきである。
第二点原判決には判決に影響を及ぼすこと明らかな事実誤認がある。原判決は、前記の如く被告人が島沢さく江を雇い入れるについて、同女が満十八歳に満たない児童であることを認識していたかどうかについて、これを明示しない違法のあることは、第一点において開陳したとおりである。
そこで、もし原判決が被告人において右の事実を認識していたものと認定したものとすれば、それは、第一点引用の証拠に徴し明らかに事実を誤認したものというべきである。
問題となるのは、本件において前記六〇条三項但し書にいう過失の有無の点である。
判例は、この点について、「接客婦として婦女子を雇入れるにあたり、単に本人の供述または身体の外観的発育状況のみによつて、同女が満十八歳以上に達しているものと判断し、さらに客観的に資料として、戸籍抄本、食糧通帳若しくは父兄等について正確な調査を講じ、児童の年令を確認する措置を採つた形跡の認められないかぎり、児童を使用する者が児童の年令を知らなかつたことについて過失がないということはできない」としている(前掲判例参照)。このことは、児童福祉法の目的に鑑み、そして又、接客婦として雇傭を希望する者が自己の年令を詐称して児童でないことを主張する事例の多いことを考えあわせると、一般的には相当な要求というべきであろう。然し、児童を雇入れる場合の雇主の注意義務といつてもそれは抽象的、画一的にきめられるものではなく、やはり当該具体的場合に即して具体的情況に応じて過失の有無を論定すべきである。
判例にあらわれた事例は、すべて、児童本人の供述、または身体の外観的発育状況のみによつて児童でない、と判断した場合である(第一点引用の最高裁決定の事件では、年令調査の質問さえも行つていない場合である)。
ところで、本件の場合、被告人は島沢さく江の一方的申立又は同女の身体の外観的発育状況のみによつて、同女を十八歳以上の者と判断した場合ではないのである。被告人の昭和四〇年六月二三日付司法巡査に対する供述調書、渡辺哲也の司法警察員に対する供述調書等によれば、被告人は島沢を被告人方に雇い入れる前、同女が既に同業の「夢ぞの」クラブで雇われ働いていたことを聞き「夢ぞの」の経営者渡辺哲也(被告人の前記供述調書では同人のことを酒井哲ちやんと呼んでいる)に問いあわせ、同人の承諾を得て、これを雇い入れているのである。
被告人としては、島沢が既に被告人と同業の接客婦クラブである、「夢ぞの」で働いていた経歴があるというので、同女が既に十九歳であるという言を信じたのである。同業の接客婦クラブで働いていた経歴があり、それが間違いないということになれば、被告人として同女が児童でないと信ずることの方がむしろ自然であろう。かかる場合においてまで、戸籍抄本等の提出を求め或は父兄等について調査することまでを要求し、この措置に出なかつたことをもつて過失とするが如きは余りに過大な要求というべきである。
もし、そうでないとするならば、法は人を雇い入れる際には常にその年令を証明する資料の提出を求めよ、というにひとしく、然らざる限り常に過失の成立することを免れないということになる。(すなわち、六〇条三項但し書にいわゆる過失のない場合というが如き事態は規定できない。)然るに、法の明文としてかかる資料の提出を求めた条規はどこにもないのであるから、結局、そのような解釈をとることは、解釈によりいやしくも児童を雇入れた者についてはすべて過失の抗弁を認めないということになり、刑法における責任主義を否定し、結果責任主義に陥ることになるであろう。法の取締目的を強調するのもよい。然し、本件の如き場合にまで過失ありと断ずることは行き過ぎである。
原判決が、被告人が島沢の年令を誤認したことについて過失ありとするものなら、やはりその過失の認定について事実の誤認があるものというべきである。
(その余の控訴趣意は省略する。)